「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」マタイ4:4 

人は、神の言葉によって生きる。又、バプテスマのヨハネの箇所で「荒野でヨハネに神の言葉が下った」と出てくるが、荒野のように思える中で、主の言葉を受け取れる。神の言葉が、荒野でヨハネに下ったとある。荒野とは何もない所だ。そこはこの世的には不便で快適でない。携帯、パソコン、テレビも無く、映画館も遊戯施設も無い。静寂が支配する場所だ。

 

その何も無い所で、主の言葉が下った。私たちも、主の言葉を聞くために静かな場所は大切だ。気が散らず集中できる場所で、御声に耳を傾ける時に、主の言葉が下る。しかし環境的に、どうしても時間と場所の確保が難しい場合もあるかも知れない。ある人は時間も場所も取れない状況下で、通勤時間を主との交わりの場とした。目を閉じ、じっと黙想し、心の中で祈りの時を持ち、その人の荒野とした。

 

又、ある人は、早朝出勤、深夜帰宅の激務だった。心身消耗し、自分の時間など全く持てない。そんな中、昼休みに屋上に行き、隅の椅子に座り、御言葉に聞き、祈り、交わりの時とした。主に触れて豊かな祝福とされた。別の人は昼休みに公園へ行き、御言葉と祈りの時を持った。そこが荒野だった。

 

育児に家事に忙殺され、自分の時間など持てない主婦が、ぼうぼうの草刈りにうんざりだったが、切り替えて、主との交わりの時とした。御言葉を反すうし、祈りつつ、草取りをしていると、悔い改めに導かれたり、問題に御言葉の導きが来たり、日頃の恵みに気づかされたり、庭がきれいになった時には、心も喜びと平安で満ちた。

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主との交わりの時を持たないと、少しの事で動揺したり悲しんだり心がどんどん消耗していくのがわかる。忙しい時こそ御言葉を読み祈り、主の守りがあることを確信して歩もう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係