主は、私たちに、御声をかけ続けて下さっている。礼拝説教や、学びや、自分で聖書を読む時に。毎週礼拝で、御言葉を聞いているが、どのように受け取っているだろうか。物理的に、耳に聞こえているが、心の耳に入っているだろうか。拒否する気はなく、聞きはするのだが、漠然と聞いていると、心に御言葉の種が植わる前に、悪魔に奪われてしまう。
御言葉を拒否する気は毛頭無いので、逆に気づかない。右から左に流れて行く。なぜ聞こえないのだろう。それを真剣に受け取るつもりがない、つまり、従うつもりが無いだろうか。聞く事は支障がないので、良いお話と聞くが、犠牲を払う気は無い時、心が受け取らない。そのため、傍観者的聞き方になってしまう。
犠牲が必要な御言葉は、無意識に除けてしまう。御言葉が、心にぐいぐい臨む時は、真剣に御言葉に向き、従おうとしている時だ。自分が変わろうとの思いがある時、御言葉が響いて来る。種蒔きの例えの通り、自分の心の態度は重要だ。
表向きは聞いているが、心の奥では拒んでいるだろうか。うすうす感じているかも知れない。成長は気づきから始まる。御霊の働きだ。どんなに従わずとも、今まで決して見捨てず、愛し慈しみ続けて下さった主を覚え、今こそ従おう。
------------
都合の悪い事は聞き流したくなるが、主の御言葉には、しっかりと立ち止まり受け取りたい。主は決して離さず愛をもって育ててくださる。幾つになっても成長していきたい。