「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません・・ほかの人が先に降りて行くのです。」ヨハネ5:7

ベテスダの池に、38年も病にある男性がいた。38年とは何という長い歳月だろう。最初は、あちこちの医者に行き、何でも試し、ありとあらゆる方法を試みた事だろう。何をしてでも治りたい。しかし何をやっても、どうにもならない、何の手立ても無い現実にぶち当たる。今度こそはと期待しては、裏切られ、それの繰り返しだった事だろう。

 

段々、心が折れて来る。その最後にベテスダに池にたどり着いた。だが、そこでも同じ事だった。水が動いた時、最初に入った者は、どんな病でもいやされる。ひたすら動く時を待ち、今度こそ〃と思うが、他の人が先を越してしまう。期待しては、打ち砕かれ、挫折の繰り返しだ。

 

どんどん心が疲へいし、期待すると傷つくので、もう期待する事自体をやめてしまう。これ以上傷つきたくない。主は、この38年の言葉に尽くせない苦しみ、悲しみ、嘆き、何もかもをご存じで、この男性に関わられた。「よくなりたいか」と。すると彼は、自分は介助者がいないから、ダメなのだと。介助者のいる人が先に行くと。

 

私たちもどうだろう。あれが無いこれが無い、だからだめ。又、自分がこうなのは、状況のせい、周囲のせい・・自己憐憫、自己正当化にいる限り、何も変わらない。周囲や状況でなく、自分はどうなのか。「あなたは、よくなりたいのか」と問われている。「はい、よくなりたいです」と答えよう。主は臨んで、みわざをして下さる。

 

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主は「では、介助して池の中に入れてあげよう」と言われたのでなく、直接、「起きて・・歩け」と言われた。初めであり、終わりである方、全主権を持つ万物の支配者だ。そのお方が、私たちに向き合って下さっているとは、何と驚くべき恵みだろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係