「そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった」マタイ13:58

主は、生まれ故郷のナザレに向かわれた。安息日に会堂で、イザヤ書の御言葉を読まれた。「捕われ人には赦免を、盲人には目を開かれ事を、虐げられている人を自由にし・・」これは奇跡のみわざだそして「今日、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現した」と。何千年も前からの預言が、今日実現し、メシアが今ここにいると。

 

聞いた人々は、主の口から出る恵みの言葉に驚き、感動し、主をほめ讃えた。しかし同時に「この人は大工ではないか」「この人は、ヨセフの子ではないか」と信仰を消し去る冷ややかな言葉は、冷水をかけるように、人々の心から恵みを消した。主を拒むので、恵みが消えて、冷めた不信仰となった。

 

主は、預言者は誰でも自分の郷里では歓迎されないと、その不信仰に驚き、嘆かれた。このナザレの人々から学ぶ事ができる。御言葉を聞く態度だ。「愛している」「赦す」「すべての必要を満たす」・・自分に心地よい、耳ざわりのよい言葉には、主は素晴らしいと喜び、主をほめ讃える。

 

しかし、罪を指摘されたり、悔い改めを迫られたり、自我に触れて来る途端、拒んでしまう。だが、心を閉じ、逃げてしまうと、主が見えなくなる。変えられて、成長して行くことがない。痛い言葉は無意識に避けているかも知れない。心の底を御霊に探って頂こう。心の奥の不信仰に気づかされ、信仰へと導いて下さる。成長して行ける。

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愛している、赦すと言われると感謝が溢れるが、耳に痛い御言葉は心を閉じて通り過ぎたい。でも御霊を通して心の底に触れている。今一度、従えない御言葉に向き合ってみよう。祈ろう。 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係