「・・宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」ルカ2:7

ヨセフと臨月になったマリヤは、住民登録のために故郷ベツレヘムに向かった。その頃、同じく住民登録をする大勢の旅行者たちで、宿屋はごった返していた。どこの宿も満員だった。「宿屋には彼らのいる場所がなかった」、今にも出産になりそうなマリヤとヨセフのための部屋は無かった。又、大変な状況の彼らのために、部屋を譲る人も誰一人なかった。

 

救い主の誕生に、皆が無関心で、主を迎える人がいなかった。私たちはどうだろう。いつも心はどこに向いているだろう。この世の関心事で、又、日々の目の前の忙しさで一杯だろうか。求めているものはこの世のもの、自分の事やプランで一杯だろうか。そのため、主のための余地が無いだろうか。御父はこの世界に救い主を送られたが、世には御子をお迎えする「場所」がなかった。

 

皆が自分の事で回っていた。しかし主はそんな私たちのまっただ中に、救いのために来て下さった。私たち信仰者も、どうだろう。主のための部屋はどうだろう。リビングに来て頂くのは良いが、心の奥の部屋はしっかり鍵をかけ、主に入られたくないだろうか。ここまでは良いが、これ以上は入られたくない部分があるだろうか。

 

気づいていないか、うすうす気づいているか、はっきり意識しているだろうか。主に明け渡したくない心を、そのまま主に告げよう。主は、わかっていて下さり、手を取って一歩一歩と導いて下さる。主がぼんやりしている時には、自分の側のさえぎるものを主に渡して行く時に、さやかに見えるようにされて行く。そして喜びが満ちる。

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本音で主に繋がっていないと、主からの慰めや、あわれみも求めずに過ごしてしまう。求めなければ受け取れないのではないか。主への感謝のない生活になっていく。さえぎるものはなんだろう。 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係