「ペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた」マタイ26:75

ペテロは主を裏切り、イスカリオテのユダも主を裏切った。しかもペテロは三度も主を否み、更に呪いをかけてまで否んだ。どちらも同じく裏切ったのだが、しかしその最後が天と地ほどに違った。ペテロは悔い改め、主の赦しを受け取った。主により回復させられ、主の昇天後、諸教会のリーダーとして大活躍した。

 

一方、ユダは、主を銀貨30枚で売ったが「罪のない人の血を売った」と後悔し、祭司長、長老たちのもとへ行った。その銀貨を返したのだが、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言われ、首をつった。悲惨な最期だった。ペテロとユダ、何と違ってしまった事だろう。ペテロは裏切った時に、主に向き、主の言葉に向いた。

 

その時、主が語られていた言葉に思い当たり、号泣した。マリヤの主のご遺体が無いとの知らせに、走って墓まで行った。ガリヤラへ行くようにとの指示に、合わせる顔もない中、しかし主の言葉に従い、ガリラヤへ行った。ユダは後悔した時に、主ではなく、律法学者のもとへ行った。そしてどこまでも主を求めず、主に頼らず、自分で決着をつけてしまった。

 

「自分で始末することだ」これは悪魔の攻撃であり、誘惑だ。私たちにも来る。自分で何とかしなければ・・。失敗した時に、自分で、自分の力で・・。その時、担いきれない重圧に押しつぶされ、絶望感に襲われる。そうでなく「わたしのところに来なさい」と絶えず招いて下さる主もとへ、何があっても、まず行こう。平安の道筋へと導いて下さる。

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失敗し絶望におちいっても主に向かいさえすれば望みがある。悔い改めてもう一度主に明け渡し従えるからだ。失敗してもまだ自分で何とかしようとするなら悔いるだけで絶望だ。信仰に向かおう。 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係