「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」Ⅱコリント3:17

信仰は、窮屈で不自由、縛りつけられるのではと、思う人々がいる。あれはダメ、これはダメ~、窮屈ではないかと。たばこ、飲酒はダメ、ギャンブルはダメ・・と。しかし、真の信仰は決して窮屈ではない。むしろ逆だ。「ねばならない」の窮屈な重圧の、かせから解き放たれて、自由にされる。魚は水の中で、自由自在に泳ぐことができる。もし魚が「水の中だけなんて嫌だ。なぜ水に限定されるのか。窮屈で不満だ。陸に自由に上がりたい」と言えばどうだろう。

 

それは即、死を意味する事になる。又、楽器演奏者はどうだろう。楽譜にそって演奏するが、その譜面は拘束で、不自由だろうか。自分を忠実に楽譜に合わせて、演奏する事によって、素晴らしい曲が奏でられる。約束事に、ルールに、縛られる事が嫌で、自分の好きなように、やりたい放題する事が自由だと勘違いするが、それは自由なのではない。それはわがままで、放縦だ。

 

肉の欲望が遂げられること、欲望が叶えられることが幸せだと、勘違いするが、しかし心に平安は無い。御霊の実を結ぶ事もない。自由とは、御霊に従うところにある。御霊に従えば、従うほど、ますます自由になって行く。喜びに満ちる。愛する事が自由で、平安があり、憎む事は不自由でつらい。

 

肉の性質は、嫌いな相手は憎んでいたいが、しかし心は重く苦しい。喜びは無い。御霊はそこから解放して下さる。ありのままを祈り、御霊の示しに一歩従おう。すると次の一歩が示され、自由に、自由にされて行く。肉の喜びでなく、御霊の喜びを経験して行く。 

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自分の思い通りに、好きなように、したいようにする事が自由だと思ってしまうが、それは肉の欲望だ。しばしの快楽はあるが、平安は無い。ますます欲求不満となる。御霊に解決がある。御霊の示しに従ってみよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係