ある人に、どうしてもよく思えない相手がいた。実際、そばにいて、しばしば迷惑をこうむっていた。そんな事をすれば、当然そのような結果を招く。なぜ、そういう事をするのか。いつもどう見ても、自業自得にしか思えなかった。心の中では、さばいていた。その相手に、突如の大変な事態が起きた。そのための祈りの要請も来た。
しかしそいういう事態になるのも、原因となるものがあり、どうしても自業自得だとしか見えない。納得が行かず、祈れない。祈れずに悶々としていた。頑なな自我とのかっとうだ。しかし、祈りの要請が来ていて、自分はこのままでよいはずはない。心が悶々で、平安も無い。
とうとう主のもとへ行き、「祈れません。助けて下さい。自分自身をゆだねます」と拠りすがった。御前に祈っていると、一つの思いが臨んだ、「自分が相手の立場だったらどうだろう」と。御霊の働きだった。自分に置き換えた時、「絶対に無理、有り得ない。こんな状況、自分なら絶対に耐えられない」と思った途端、涙が出て、気づくと自分が熱心に相手のために祈っていた。
どうにもできず、明け渡した時に、御霊により祈りが与えられた。そして平安にされた。その直後、事態が見事に解決したと、祈り感謝の連絡が来た。愛して行くということは「自分だったらどうだろう」と、相手の立場に立つことだと言われているが、それも、自分の力ではどうにもならない。できない自分を、主にゆだねて行く時に、主が成し遂げて行って下さる。
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どうすればよいかがわかっても、従うことができない。肉があるからだ。肉はどこまでも頑なだ。どうにも出来ない。しかし、どうにも出来ませんとギブアップし、明け渡して行く時に、不思議を経験する。そこに主が働かれ、みわざを自分自身が経験する。、