「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。』と言わないように気をつけなさい。」申命記8:17

イスラエルは主の選びの民とされた。それは、まずイスラエルが祝福され、彼らを通して諸国民が祝福され、救われるようにという事であった。民は、苦難のエジプトから救い出され、水も食物も無い荒野で、主の奇跡をもって養われ守られた。そして主が約束された通り、乳と蜜の流れる地カナンに導き入れられた。

 

ところがその良い地で、生活が豊かになると「この私の力、私の手の力が」、この富を築き上げたのだと高慢になった。主は、何度も警告された。「主が」あなたに富を築き上げる力を与えられたのだと。その事を決して忘れるなと。人は、何不自由ない、平穏な日には、主を忘れてしまう。自分の力で生きて行けると思うからだ。

 

主を忘れ、恵みを忘れ、高慢になってしまう。「苦しい時の神頼み、楽しい時の神離れ」と言われるが、順境の時には、恵みが飛んで、何もかもが当り前となり、感謝が無くなる。こんな時、主は愛ゆえに試練を送られる。懲らしめは愛だ。民も、バビロン捕囚という非常に厳しい試練に会った。砕きであった。

 

エルサレムがバビロンによって攻められ、国土を失い、家を失った。異国へ捕囚の身となり、苦難を受けた。やがて次世代になった頃、人々は暮らしは、それなりに成り立っているが、信仰心は失せ、何を拠り所に生きて行けば良いのか、心は空虚だった。そんな時に、諦めていた祖国帰還のメッセージが語られた。

 

労苦は終わり、慰めの時が来たと。私たちも状況が悲惨でも、主は決して捨てられない。必ず朝は来る。何よりもいつも主を心に据えて、高ぶらず、主が祝福の与え主である事を心に刻んでいよう。

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苦しい時にも希望があり、主は今、平安の地に導いてくださった。幸せは見えにくいが主のあわれみは尽きない。主が良くしてくださった事を何一つ忘れず、へりくだり主に感謝をささげたい。 

 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係