ある時、パリサイ人や律法学者たちが、姦淫の現場で捕らえられた女性を、主のもとに連れて来た。主を試して問うた。律法では、石打ちの刑だが、あなたはどうされるのかと。主は黙ったまま、身をかがめ、指で地面に書いておられた。彼らは、問い続けてやめないので、主は「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げよ」と言われた。
すると、一人一人と出て行き、全員が去り、誰も、いなくなった。つまり彼らは、主の言葉により、内側が照らされ、自分を見た。そして罪を認めた。真実が現されようとしていた。本当の自分の姿に向き合うのか、それともそれを拒んで、逃げるのか。しかし、彼らは逃げた。主に導かれて、自分の罪を見たのに、誰も向き合おうとせずに、全員が逃げてしまった。
しかし姦淫の女性は逃げずに、そこにいた。さばきからも逃れようとせずに、主のもとにとどまった。自分の罪に向き合い、認めたのだ。その時主から「あなたを罪に定めない」との全き赦しを受け取った。私達はどうだろう。主と自分に向き合い、自らの罪を認め、悔い改め、新しい歩みを始めるだろうか。
見たくないものから、目をそらし逃げるなら、闇の中で、ますます見えなくなる。罪がわかるなら、それは主による事で、御霊の光が臨んでいる証拠だ、悔い改めよう。平安といやしが臨み、そこから新たに歩める。
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罪を自分で何とかしようとすると逃げるしかないが、主に向き、悔い改めるなら、主が赦しを与えてくださる。主に留まっていよう。必要な力や新しい歩みが主からくる。