エレミヤの時代、イスラエルは、強国アッシリヤに滅ぼされ、捕虜として連行された。だが、そのアッシリヤはバビロンにより滅ぼさ、バビロンはどんどん侵攻し、とうとうユダ王国も、バビロンに捕囚となった。当時のユダは神から離れ、堕落し、偶像礼拝に陥っていた。そして預言者たちは、人々に耳ざわりの良い、都合の良い、心地良い言葉だけを語っていた。
平安が無いのに、見せかけの「平安、平安」と言っていた。だがエレミヤは真っ直ぐに神の言葉を語った。そのため迫害され苦しめられた。捕囚中の暗闇の中で、主の言葉を語り続けた。その捕囚は、一見まさしく「災い」としか見えないが、災いではなく「平安・将来・希望」のためのものだと。すぐに解放にならないので、その地で腰を据えて生活せよと。
そして敵であるその町の繁栄を祈れ、それは自分たちの繁栄になるからと。私たちも苦難の時、一番欲しい言葉は「即、解決」、「即、悩みからの解放」だ。しかし口先だけの言葉は、更に傷を深くする思い通りでない、かせのような現状を受け入れるなら、そのまっただ中で、主からの支え、励ましにより歩めると。
現実を受け入れる事が大切だ。受け入れられるよう祈ろう。いつまでもそのままではなく、「70年の満ちる頃・・帰らせる」。厳しい現状で主に従うなら、その中で「平安」が約束されている。そして神の時に、必ずそこから出される。
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「即、解決」「即、解放」だけを望んでいくと、都合のよい解釈が御心に思えてくる。目の前だけを見て動かず、主の御言葉に従おう。災いに見えても主の確かな土台の上には平安がある。