「しかしペテロは、『あなたの言うことは私にはわかりません。』 と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた」ルカ22:60

ペテロは、主が捕らえられ、これから十字架に向かわれる時に、主を三度も否定してしまった。何があってもついて行くと豪語したのに、主を裏切ってしまったのだ。しかし実は、サタンがふるいにかける事を、主が許されたゆえの事だった。そして、主はペテロの信仰がなくならないように、祈っておられた。

 

苦しい試練のペテロの背後に、主の祈りがあった。ペテロは以前に、他の者たちが皆、主を捨てても、自分は大丈夫と言い切った。どこまでも主について行くと。主はその心に潜むペテロの弱さをご存じであった。しかしペテロは知らずに、自信に溢れていた。だが、その自信は粉々に砕け散った。

 

「信仰がなくならないように」主は祈られたが、信仰が無くならないとは、罪を犯し失敗するが、悔い改めに導かれるという事だ。ペテロは悔い改めて赦された。私たちも必ず失敗する。失敗しない人は一人もいない。しかし、常に主は私たちのために執り成して下さっている。だからこそ罪を認めて、悔い改める事ができる。そしてその罪は完全に赦される。

 

ペテロは砕かれ練られ、主の器として整えられて行った。私たちも今、試練の中にあるなら、砕き、練られ、整えられるためだ。私たちは、もうだめだと思うが、失敗は赦して下さり、なおも益とされる。そして自分の力が砕かれ、自分でなく、主に、拠りすがる者と造り変えられて行く。

 

・・・・・・・・・・・・・

ペテロが主を裏切ってしまうという、人生最大の危機に、主は御言葉を与えて下さっていた。主のお言葉を思い出し、ペテロは号泣した。そして主は、祈っていて下さった。失敗しないようにではなく信仰が守られるようにと。主の祈りと主の言葉が、試練と共にある。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係