ある人が失敗し、罪を犯してしまった。周囲の人を傷つけてしまい、ひどい過失だった。悔い改め、赦していただいたと頭ではわかるのだが、心が痛くてたまらず、重かった。主に向かい、あるがままを申し上げ、祈っていた。聖書を開いた時、ペテロの回復の箇所だった。自分だけは絶対に裏切らないと思っていたペテロが、主を3回も、それも呪いをかけ誓ってまで裏切ってしまった。
何と言う事をしたのか。取り返しがつかない大失敗、ペテロはどんなに苦しい思いだったろう。そんな中、主が、弟子たちのために、魚とパンの朝の食事を用意し、招かれた。そこでペテロに、3回「あなたはわたしを愛しますか」と問われた。主は「なぜわたしを裏切ったのか」とは一言も言われない。人間的になら、まず問うてしまいそうだ。
しかし「わたしを愛しますか」だった。ペテロは「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えた。以前のペテロなら、違ったろう。主を愛する事においても、自分が一番だと思っていた。しかしその自信が砕け散った。ペテロは砕かれた。その現実を前に、精一杯の心を伝え、主に判断を委ねた。ペテロは赦され、使命を与えられた。
その箇所が、自分自身にも重なり、主の赦しを確信できた。私たちも問われているだろうか。どうすればよいのかとの様々問題が生じる時、その事は、「主を愛する」ゆえにするのだろうか。又、「主を愛する」ゆえに控えるのだろうか。どうであれ動機は主への愛だろうか。私たちの動機は、主を愛するゆえだろうか。
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失敗する度に主は私の罪を十字架によって赦してくださる。赦しを受け取る平安は何物にもかえられない。この主のご愛があるからその愛に応えようと遅い歩みでも変えられて行く。主を愛するゆえに。