「イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。」マルコ12:41 

金持ちが大金を投げ入れていた中で、貧しいやもめが2レプタを献金した。僅かな額だが、主はその事を大きく評価された。金持ちは人に見られたくて、賞賛を得たくて多額の献金をしていたが、主はこのやもめに目を留められた。それは彼女の生活費のすべて、全財産だった。主はそれを重く受け止められた。

 

主は、何を言われているのだろう。彼女のように全生活費を献げよと言うことなのか。それが信仰的で、霊的だということなのか。そうではなく、大事な事は、彼女の心の目が見えるところでなく、ただただ主に向いていたという事だ。目の前の生活や、物や、今後の必要ではなく、一心に主に向いていた。自分を主に明け渡し、委ねきっていた。

 

そしてすべての望みを主に置いていた。その彼女の心は感謝であふれていた。その満ち溢れる感謝が献金の動機だった。全生活費=人生を、主に献げた彼女の心は富にではなく、主にあり、主に自分自身と将来を任せていた。投げ入れたのは、彼女の所有欲、自我、いのちそのものだった。それが彼女の信仰だった。明日の必要は、絶対に与えられると信じていた。

 

そして、人にどう見られるかもいっさい無く、ただ主だけを意識していた。主は、じっと彼女を見ておられた。主のまなざしがすべてであり、それで十分だ。翌日の彼女をも、その生活も主は見ておられる。私たちも、主に見つめられている。今日も主のまなざしに、大丈夫だと思える。

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主だけを見られず、他の支えも欲しくて思い煩っているが、他の支えと思っているものも与えてくださるのは主ではないか。主は必要に応じて一歩一歩道を開き恵みをくださっている。主に明け渡そう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係