「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。」マタイ14:20

よく知られている箇所だが、主のもとに来た人々が、男だけで五千人、女、子供を入れると更に大人数になる。時刻も回って来た。弟子たちの考えは「群衆を解散させ、めいめいで食物を買うように」だった。それはこの状況では、妥当なプランであり、常識にかなっていた。しかし、主の御心は違った。「あなたがたで食べ物を上げなさい」と。

 

「え?」と、弟子たちは戸惑った事だろう。こんなにも大勢の人々にどうやって? こんな場所に店など無いし、あってもこれほど大勢の分など不可能だと。そして手元にあったのは、五つのパンと二匹の魚のみであった。「これよりほかありません」。私たちも目の前の状況と自分だけを見て、判断してしまうだろうか。この目の前の難題に、自分の能力では無理だ、能力も、時間も、経費も何もかも不足だ。有り得ない。

 

自分に何が出来よう、自分の力、自分の持ち物など、焼け石に水だ。何になろう。気が遠くなるほど膨大な必要を前に、手持ちは余りにも微少だ。しかしそこには、目の前に主がおられる事、主の御力が抜け落ちてしまっている。主に不可能は一つも無い。「それを、ここに持って来なさい」そのあるか無いかわからない僅かなものを、主のもとに携えるようにと。

 

ここが秘訣だ。自分自身を明け渡そう。こんな僅かなものが何になろう、と思うだろうか。主は、献げられたものを受け取り、いかに溢れるばかりに祝福されるかは、驚くばかりだ。全員が満腹して、更にパン切れの余りを集めると12のかごが満杯になった。今、主から言われている事があるだろうか。

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自分に、何ができようと思う。能力も、財力も、体力も、時間的にも、何もかもが不足だ。しかし手元に何があるかと、問われている。手元にある小さなものを、それを主のもとに献げるようにと。手元にあるものをお献げしよう。それは周囲の人々を満たして行く。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係