「主はその高殿から山々に水を注ぎ、地はあなたのみわざの実によって満ち足りています。」詩篇 104:13 

安心し、平安であり、「満ち足りる」心とは、誰しもが望むもので、心の求め、欲しいものだろうか。満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道とあり、真の満足は、心から湧き出るものであって、外部からのものではない。生活の必要は与えられているのに、「あれが、これが欲しい」「もっと欲しい」幾ら持っても決して満足が無く、更に欲しい。

 

これは「貪欲」だ。貪欲は、心の問題で際限がない。底なしだ。それは所有すればするほどますます心が囚われてしまう。これで良いという事が無い。常に心が満たされない。「満ち足りる心」は主を仰いで、感謝することから来る。「すべての事について感謝せよ」「あふれるばかりに感謝せよ」。今、与えられているものを、主を見上げ感謝して行く時、貪欲の罪から守られる。

 

そして競争心や妬みからも守られる。今の境遇は、皆、違う。しかしそこに主を認めて、主からの境遇と受け止め、感謝して行く時、妬みや不満から守られる。不満、妬みは、無いものを数える事から来る。「あれが無い、これも無い」。無いものを数えていないだろうか。与えられているものに目を向けよう。溢れるばかりに感謝を献げよう。

 

感謝するとは、そこに主を認める事になる。感謝する時、悪魔は足場を失う。パウロはどんな境遇でも、満足する事を「学んだ」と。様々な状況の中で、主に従いつつ、「学んで」身につけられて行った。一見、受け入れ難い事、極度のストレスも通ったろう。しかし主に従い、主に身を委ねて行く中で、少しずつ学ばされて行った。今の境遇を受け入れ、感謝できるよう、自分では出来ないので、主に助けを求めて祈ろう。

 

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感謝など無理と諦めて、主から離れるのでなく「感謝できません」と、主に近づき、訴えよう。主が何とかして下さる。感情でなく、意志を向けるよう助けが来る。意志を向けて感謝して行くと、不思議が起きる。御言葉に従う事になるので、思いが変えられる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係