「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」マタイ5:24

私たちの肉の性質は、自分の間違いを認めたくないものだ。プライドだ。相手が謝りさえすれば、こちらも謝ってもよい。相手が変わるなら、こちらも変える気持ちは無いわけではない。自分から「私が悪かった」とは言いたくない。プライドがどこまでも邪魔をする。言い訳をし、自分を正当化し、出来るなら、謝らずに、善行で相殺したい。

 

問題に向き合わずに、礼拝出席や奉仕をする事が逃げになり、それで埋め合わせしようとする。だが、主に罪を犯しているなら、罪を告白し、人への罪なら、相手に謝罪する必要がある。主は和解を喜ばれる。先延ばしにしているだろうか。いつかでなく、気づいたあなたが、すぐにせよと。そして祭壇に献げ物をする時、「恨まれている相手」がいるなら、先に相手と仲直りをせよと。

 

この場合、恨まれているのであって、自分が恨んでいるのではない。しかしその時も、自分の方から赦しを求めよと。誤解や行き違い、感情のもつれがあるのかも知れない。その時は、気づいた自分の方から始めよと。又、人を憎んだままなら、献げ物は受け入れられない。礼拝への途上でも、仲直りの方が大切だと。謝罪や和解が難しいのは、プライドが関わって来るからだ。何とか避けたい。

 

主はどこまでも、私たちを赦して下さる。だが自分はどうだろう。赦せない相手がいるだろうか。自分は正しいと、主張続けるなら、そこに解決が無い。自分を省みて少しでも非はないだろうか。主は、根本から解決し、大きな喜びと安堵、平安でおおって下さる。

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嫌な人とは出来るだけ距離を取りたい。思い出すだけで腹が立つからだ。でも主は、悪いのは相手であって自分ではないと言い張る自分に問題があると言われる。敵意をもって今も見ている罪を認めたい。主は赦してくださる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係