「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、 あのことをしよう」ヤコブ4:15

主が、私たちのために計画を立てて下さっているなら、あの事、この事、自分たちが、プランを立てるのは良くないのだろうか。そうではない。無思慮の、行き当たりばったりが良いのではない。将来の計画や、雨の日のために備える事は大切だ。しかし重大な事は、私たちには明日の事、つまり先の事と自分の命の事は、いっさいわからないという事だ。

 

人の生き死には、主の主権の内であり、人の手の中には無い。しかし「私は~して、~して」「私は、私は」と自分が計画を立て、成し遂げようとする。その根にあるものは、虚しいプライドであり、高ぶりだと言っている。「むなしい誇りで高ぶっている」と。神を無視し、自分が神の位置にいる事になる。又、人生は何が起きるかわからない。それは誰にもわからない。それを「霧」にたとえられている。しばらく現れたと思うと、すぐに消えてしまう。非常にはかないものだと。だから今日~しよう、明日~しようと思っても、明日生きているかどうかもわからない。それゆえ、神無しの人生、神無しの計画が愚かなのだと。大豊作で倉を建て増した金持ちは、「私は、私は、私は~しよう」と、さあ楽しもうとしたが、何と、その日に命が取られてしまった。主は「愚か者」と言われた。

 

神の前に富まなかった事が愚かだと。大切なのは、「主のみこころなら、~しよう」だ。祈りの中で、主と相談して、主と一つに計画を立てて行く。「愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」。その時、主の前に富む者とされ、豊かな実を結んで行く。計画は、主と相談しながら立てよう。

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いくら綿密に計画を立てても、本当は明日の事すらわからない。主の前にへりくだり御心ならばと、一つ一つの計画が主に祝福されるよう祈ろう。祝福の度に心からの感謝をささげることが出来る。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係