「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」 ガラテヤ6:7

ダビデはバテシバとの姦淫と、その夫ウリヤ殺害の二重の罪を犯してしまった。ナタンによって罪を指摘された時に、「私は主に対して罪を犯した」と罪の告白をした。その時、即座に「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」とダビデの罪が赦された。何という恵みだろう。完全に罪は赦される。罪のとがめは全く受けない。

 

罪は二度と思い出されず、海の深みに投げ込まれる。罪の責めは全く負う事がない。十字架の贖いによる神の大きな恵みだ。しかし、罪が完全に赦される事と、罪の結果を刈り取る事は別の事だ。自分の蒔いたものは、必ず刈り取る。これは法則なので一つの例外も無い。罪は赦されるが、罪の結果は自らが負う事になる。厳粛な事だ。

 

だから、赦されるのだからと、恵みを軽んじて、軽く考え、罪を犯してはならない。ダビデの最初の子どもが病気になった。ダビデは断食をし、一晩中地に伏して祈った。だがその子は死んだ。ダビデはそれを受け入れた。そして主を礼拝した。又、息子アブシャロムが謀反を起こし、自分に敵対した。

 

息子たちの間に、数々のつらい心の痛む出来事が起きたが、主からのものと認め、受け入れた。そのところにダビデは神の聖、神の愛を受け止め、ますます練りきよめられて行った。蒔いたものは、刈り取る事が御心であり、訓練として下さり、そこになおも祝福が備えられている。

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蒔いたものには必ず刈り取りがある。くり返し失敗して、たとえ今は良くても明日はどうなるかわからない者だ。主の罪の赦しを感謝し、どういうものに蒔いていくかをよく吟味したい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係