「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて・・自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:17

私たちの心は、自然に放っておくと、肉へと向かってしまう。嫌な人、愛そうとするのでなく、嫌っていたいし、更に憎しみがつのる。人の言動にムッとなると、まず祈るよりも、言い返したい。一言、言い返すと、肉はスッキリする。人から傷つけられると、何倍にもして報復したい。又、主の言葉に従うよりも、自分の好きな事をしたい、しかし、それは肉だ。

 

肉は楽な方へと進み、より楽な方をを選んでしまう。祈るようにと御霊の促しを感じる時、祈るよりもテレビを観ていたいし、好きな事をしていた。一日の終わりには、あれこれと犯した罪を思う。しかし主に向く事なく、そのまま眠りにつき、又、次の朝を迎える。それを繰り返していると、どんどん肉へと流されてしまう。自分で気づかぬまま、知らず知らずの内に、主を離れた生活へとさまよい出てしまう。

 

それを押しとどめてくれるのが、主との交わりであり、祈りだ。多忙な中、ほんの少しでも主との交わりを持つ時に、御霊は罪を示し、悔い改めへと導かれる。赦されて、又、霊が新たにされ、新しく歩んで行ける。ある人が仕事上の難題を抱え、心身をすり減らしていた。残業の日々で疲労もたまり、イライラし、ピリピリしていた。時間が無く、祈りの時も全く持てていない。

 

限界を感じ、昼休みに外へ出て、公園の隅のベンチで、主を求めた。あるがままを主に祈り、心底の助けを求めた。ほんの少しの時間だったが、カラカラに渇き切った心が、主に触れて水を得たようにすう~と落ち着き、新たにされた。平安と共に、午後の仕事に戻れた。

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御霊に導かれて初めて自分のしたいことができる。だから心は潤い喜ぶ。あわただしい毎日、少しでも御言葉にふれ、主と交わる時を守ろう。そして御霊の導きに応えていこう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係