「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」Ⅰペテロ5:7

ある人が、職場の対人関係で、深く傷つく事態が起きた。腹が立って仕方がない。激しい怒りが湧く。相手が赦せず、何倍にもして仕返しをしたいと思う。怒りが収まらなかった。しかし少し落ち着くと、自分はクリスチャン、赦さねばとは思うのだが、心は裁きと憎しみが渦巻いた。

 

だが、罪のとがめも来て、赦さなければと思う。そうしなければと思うのだが、怒りは消えない。どうにもならなかった。「赦しなさい」との数々の御言葉もよくわかっているのに、相手の事が思いに来ると煮えくり返り、そして、又、赦せない自分を責めるようになる。自己嫌悪に陥り、惨めになった。

 

そんな繰り返しの中で、何とか「赦せますように」と祈り始めたのだが、やはり無理で、できない。段々、「何で、あの相手のために、自分が、こんなにも苦しまねばならないのか」と、腹が立って来る。普段の生活で、楽しい時もその思いがよぎる途端、暗く、苦しくなる。

 

主の御前に出て、なぜこんな事になっているのかと、怒り、恨み、自分の惨めさ、つらさ・・心の底をハンナのようにぶちまけ続けた。すると不思議だが、心が何だか落ち着き、主が受け止めて下さっていると信じられて、暖かい感覚が来た。

 

主を感じ、祈り続けていると、それはそれ、これはこれと、祈りと現実問題がリンクしておらず、赦しは自分の力でしようとしていた事に気づかされた。祈ったはしから、自分が動き出す。主に、そんな自分を明け渡した時に、初めて心に安堵が来て、主が赦す力も与えて下さると信じることができた。

 

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相手を赦すことが御心だが、決して肉では、自分の力では赦す事は不可能だ。しかし自分でやろうとしてしまう。かなり悪戦苦闘し、なおも戦い、とうとう疲れ果て、無力を認め、主の前にギブアップする時に、不思議だが御霊によって、御心を行わせて下さる。 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係