「キリストは・・ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」Ⅰペテロ2:23

ある人が、職場で上司との関係で、苦しんだ。暴言に、嫌がらせ、理不尽な扱いを受けた。一緒に祈っていたクリスチャンの先輩が、慰めようと「つらかったねえ」と声をかけた。すると彼は「はい、祈らされました。こんなに祈った事はありません。自分は悪くないのにと、怒りと悔しさしかなくて。そんな中、主の十字架が迫ったのです。完全に正しい方が、十字架にかかる必要の無い方が、あの十字架で苦しまれ、命を捨てられた、その事に目が開かれました。今まで頭でしか、わかっていなかった事が、初めて心でわかりました。主の姿を通して自分の姿が見えました。その時、主にいっさいをお委ねできて、今、平安が与えられています。もう感謝しかありません」と答えた。

 

彼には正当な言い分があり、主張があった事だろう。しかし信仰に立った。自分で自分を守ろうとせず、又、自分で状況を動かそうとせず、すべてを正しく導き、裁き、成し遂げられる方にお任せしたのだ。ダビデもサウル王から理不尽な扱いを受けた。サウルの一方的な妬みにより、命をつけ狙われた。槍をダビデ目がけて投げつけられた事もあり、どこまでも追撃された。

 

ヨセフも、エジプトで主人から厚意を受けたが、その主人の妻により、身に覚えの無い無実の罪で投獄された。しかし、ダビデもヨセフもそんな中で、反撃するので無く、御父に自らを委ねて行った。そして彼は、主により、神の時に、ふさわしい解決を与えられたのであった。

---------------

ののしられたら、ののしりたいと感情的になってしまうが、それは御心ではないと知っている。思いは乱れても祈ることが出来る。主に助けを求め、事の全てを知っておられる方にすべてを委ねていこう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係