「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え・・」ヨハネ14:26

ある人が、小学生の時から、教会に通っていたが、罪がよくわからず、赦されたという事も、ぼんやりしていた。その後も教会へは行くが、信仰自体も漠然としていて、サークルへでも行っているような感覚だった。そんな中、部活で部長をしていたが、病気のため、入院の必要が生じた。迷惑をかけるので、部長を他の人に代わってもらった。

 

退院後、少し体調が良い時に行くと、自分のいた場所に、新部長がいてうまく回っているし、皆がその人を信頼し、相談を持って行く。それを見た時に、寂しさと妬みが湧いた。自分の顔が歪むのがわかった。こんなはずではない自分を見せられ、どうしようもない醜さを知った。その時、初めて罪がわかった。自分のプライドの高さ、高慢を知った。心から悔い改め、主の十字架がこの罪のためであり、自分のためであることを身をもって知った。

 

その時に心からの感謝が湧いた。ある人は、入院中に親しくなった患者さんが、後で入って来て、先に退院して行くのを見ると、作り笑いをし、口では「良かったね」と言う。しかし、心では全く祝福できず、喜べず、羨ましくてならず、妬ましさでいっぱいだった。その時、喜ぶ者と共に喜ぶ事など全く出来ない、自分の姿を思い知らされた。

 

自分は親切な良い人間と思っていたが、その自分の醜い姿を見せられた。しかし主はこんな自分を愛しておられ、その愛は自分がどうであろうと、決して変わらず、人の喜びを喜べない、自分のための十字架だと、心からの感謝が湧いた。

 

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御霊が罪につき、義につき、さばきにつき教えて下さる。御霊によらなければ、罪はわからない。御霊が罪を教えて下さる時、悔いくずおれる。頭でなく、霊でわかり、十字架の恵みがわかる。自分のその罪のためであることがわかる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係