「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15

エマオ途上の二人の弟子たちは、主の無残な十字架の最期を見て、失望落胆した。よみがえりを信じていない彼らは、エルサレムを後にし、とぼとぼと郷里へ引き揚げる。「暗い顔つき」だ。主がローマ帝国をくつがえし、王国を打ち立てるとの思いが余りにも強く、その分、失望も非常に大きかった。期待が大きければ、落胆も大きい。

 

何もかも打ち砕かれ、絶望し、なすすべなく、郷里へ向かう弟子たち、そんな彼らを主は見捨てられなかった。よみがえりを信じない彼らだったが、まさにその信仰をよみがえらせるために、主ご自身が彼らのもとへ向かわれた。失望落胆で、かたわらを歩く主がわからない弟子たちに、主はどこまでも御言葉を語られる。御言葉を解き明かし続けられる。

 

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与え」る。原則として、私たちは御言葉を通して主と出会う。御霊が働かれ、御言葉により目が開かれ、主がわかる。御言葉が大切だ。御言葉を離れて、幻や、感覚や、神秘体験を求めると、間違った方向へ行ってしまう。

 

今、失意の中にいて、主を見失っているだろうか。主は決して見捨てず、あなたのかたわらを歩いておられる。御言葉を解き明かし、ご自身を現わされる。今、御言葉を注視しよう。祈りつつ耳を傾けよう。主は、御言葉を語っておられる。御霊が働いて、御言葉により、新たに主がわかるようにされる。

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暗い顔つきで主を見失っている者を、放さずなお主は語ってくださる。主の御言葉に聞いて行こう。聞くことで御霊に励まされ、教えられ新しい力が生まれる。主にありのままを祈ってみよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係