「してみると、あなたがたは、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。そうすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを与えないことがありましょう」マタイ7:11

主は、求めよ、そうすれば与えられると言われ、どんな時にもまず祈れ、わたしを呼べと言っておられる。自分の子どもが、パンが欲しいという時に、石を与える親がいるだろうか。子どもが魚を欲しいという時に、どの親が、蛇を与えるだろうと。親は子どもを愛しているので、必ず良いものを与えると。

 

そのため、祈って行くが、そんな中で、ある事を経験する。求めがあり、祈っているのだが、なかなか祈りが答えられない。幾ら祈っても答えられず、壁にぶつかっているように感じてしまう。そして、むしろ状況は反対方向へ、悪い方へ向かって行く。一体どうなっているのだろう。パンを求めているのに、石が出て来る。魚が欲しいのに、蛇が出て来る。そんな経験があるだろうか。

 

アウグスチヌスの母モニカの、涙の祈りは有名だ。息子が異教に走り、ひどく不道徳な堕落した生活をしていた。母は、「涙の子は決して滅びることはない」と教えられ、息子のためにひたすら祈り続けた。祈るのだが、しかし祈るほどに、見えるところは、ますます悪くって行く、息子は更に堕落して行った。

 

だが、涙の子は滅びないと、祈りを信じることができ、見えるところが逆になって行っても、なおも祈り続けて行った。そしてとうとう息子に、回心が与えられた。祈りということの中にも試練があり、試される。祈りを続けよう。祝福の一歩手前かもしれない。

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待ち望むという希望がある事は感謝だ。忍耐して祈ることが出来る。求める者に主が与えてくださるのは常に最善だ。この確信があるから今日も求めて、捜して、たたいていける。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係