「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、 信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し・・」ローマ4:20

アブラハムは、望みえない時に、なおも望みを抱いて信じたと出て来る。普通は状況が良い方に向かう時に、望みを持つ。しかし望み得ない時に、望みを抱くのが信仰だ。目に見えたなら、もはや信仰は必要無い。目に見えないものを信じるのが、信仰だ。望み得ないという事は、現実には、望みのかけらも無いという事だ。

 

望みの根拠は主の言葉で、み言葉を信じるのであって、肉の感覚によるものは、何も無いという事だ。主の真実のみが、私たちの拠り所であり、保証だ。保証は、主にあるのであって、自分の中の何かにあるのではない。環境や状況、目に見えるところからは、何も感じる事が出来ない。そこに求めても、得るところが何もない。

 

主が約束して下さった言葉の中にのみある。主の言葉をそのまま受け入れて信じることだ。アブラハムは約束の言葉は与えられていたが、現実を見ると、相容れず、相反する状態にあった。その暗闇の中で、彼は、見える現実ではなく、神の言葉を取った。肉には何の手応えも、実感も無いが、それで良いのだ。

 

その中でなおも、約束の言葉を信じて行こう。モーセは、民を約束の地に導くとの主の約束があったが、民は、エジプト軍の追跡を受け、目の前は紅海、絶体絶命だった。モーセは主の言葉に従った。すると、紅海が分けられ、乾いた道により、民は救われた。荒野でマナも水も与えられた。主の言葉に信頼を置こう。

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時に、見えるところと、約束のみ言葉が、全く相容れない状況を経験する。正反対だ。意志を向けて、み言葉を選択しよう。「思い煩うな」「心配無用」「祈れ」「感謝せよ」等、み言葉の方に立てるよう祈ろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係