「いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」マタイ13:22

種蒔きのたとえで、種が道ばた、岩地、いばらの中、良い地と4つの土地に落ちた。この中で良い地に落ちた種だけが、豊かに実を結んだ。いばらの中に落ちた種は芽が出たのだが、いばらが伸びて、その芽をふさいでしまい、結実しなかった。そのいばらは「この世の心遣い」と「富の惑わし」で、それらが御言葉をふさぐと。

 

人は、心が満たされない時、「この世」のものを握り締め、この世にしがみつく。人に良く見られたい、認められたい、評価されたいとの思いであり、そのため良い人であろうとし、人の評価を求めて、人にしがみつく。これが世の心遣いだ。又、満たされないので、心を満たすために富を握り締める。富が幸せを与え、夢を実現させてくれ、生活を保障してくれると思ってしまう。

 

富の惑わしだ。心の満たしを求めて、ますます目に見えるものに固執してしまう。そうしていて気づかない。自分にとっては命なので、手放すなどとても出来ない。しかし主はあわれんで下さる。あわれみの主だ。主は決して見捨てられずに、導かれる。試練を与え、愛する者を懲らしめられる。懲らしめは主の愛だ。

 

つらく苦しい状況の中で、初めて真剣に主を求め、御心を求め、自らの状態も探り、振り返り、考える。自分は、主以外の何に執着し、握り締めて放さないのか、普段は考えないし、ほとんど気づかずにいる。試練によって、主に真に向き合い、自分の姿に気づかされる。明け渡して行けるようにされる。一段階、成長へと導かれる。懲らしめは、神の方へ向ける愛だとわかる。

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この世の価値観の中に生まれ、知らずに大切にして生きてきた。主はそこを取り扱い変えていってくださる。主を信じ、御言葉を正しく聞き従おう。主の与えてくださる恵みを豊かに知っていこう。 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係