「エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ、 肥えた谷の頂きにあって、これを美しく飾る花もしぼみ ・・」イザヤ28:3

エフライムは、「肥えた谷」とある肥沃な地を持っていて、「誇りとする冠」とあり非常に高慢になっていた。「酔いどれ」、酒に酔いつぶれながら、自分を誇り、自慢していた。主はその酔いどれの誇りとする冠を、足の下に踏みにじられるために、アッシリヤを送られた。私たちも同様だ。

 

何かの成果があると、主の恵みを忘れて、自分の力で得たかのように、高慢になってしまう。主に栄光を帰すのでなく、自分が栄光を奪い「誇りとする冠」にしてしまう。そんな時、主は私たちを愛しておられるので、私たちにもアッシリヤを送り、砕きとされる。今、もし痛い事、つらい事態が来ていたら、へりくだって、御霊に自らの内側を探って頂こう。

 

自らを誇っていなかったか、主の恵みを横取りして、自分の手柄にしていなかったか。主はしばしば、様々な事態を送られて高慢を砕いて下さる。それは主の愛だ。私たちは、放っておかれたなら、すぐに天狗になって、主から離れてしまう。思うようにならない状況、事態は、主からであり、感謝なことだ。そこでつぶやき、反発し、不満をぶつけるのは、方向違いだ。

 

へりくだって、主のお心を求め、悟りたい。過去を振り返る時、思い通りにならなかった事態が、どんなに感謝で恵みであった事か、思い知る。それが無ければ、どんなに高慢になっていただろう。主の守りに感謝しかない。

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強い自我はすぐに自らを誇り、拠り所としてしまう。自分の力が及ばない状況になってはじめて主に託せる。試練の中で、主に出会う事は感謝だ。どんな時にも主を誇って歩める。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係