「求めなさい。そうすれば与えられます・・だれであれ、求める者は受け、搜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」マタイ7:7

パリサイ人は会堂や通りに立って祈った。それは「人に見られたくて」、いかに敬虔であり信仰深く、祈る者であるかを見せるためだった。それなら、主ではなく、自分を崇めるためのものだ。「祈る時には、偽善者たちのようであってはならない」人に聞かせるために祈るのは、肉であり偽善だと。

 

自己顕示のために祈る事とは逆に、人前での祈りに尻込みする事がある。人を意識し、どう評価されるかと恥ずかしい。人が気になり、祈れない。これも同じく肉から出たものだ。又、異邦人のように同じ言葉を繰り返すなと。言葉数の勝負とばかりに、何時間も同じ言葉を唱える。異教ではよくあるが、これは根本的に違い、私たちと主は、取引き関係でなく、信頼関係で結ばれている。

 

主は祈る前に、私たちの必要をすべてご存じだと。それなら祈らなくてもよいのではなく、「だからこそ」祈れと。主は「求め」を喜ばれ「求め」に、答えられるからだ。すでにご存じだからこそ、安心して求める事ができる。「自分の奥まった部屋に入り、戸をしめて」祈れと。

 

人ではなく、自分でもなく、主を意識して、主に向き合う祈りだ。環境的に、一人が不可能な場合もある。ある人は通勤の満員電車に座り、主を意識し祈ったと。公園でも、道を歩きながらでも、主に心を向けて祈る事ができる。極みまで愛し慈しんで下さっている御父が、受け止め答えて下さる。信頼し。御前に行こう。

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祈るときやかましい雑念がはれて自分の内側が照らされる。祈りによって新しい祈りが生まれる。悪魔の企みの一つは祈らせないようにすることだ。祈りの時間を求めよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係