「このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエボデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた」士師17:5

ミカという人物の親が、銀千百枚を盗まれた。その時、母親は盗んだ者を呪った。しかし自分の息子ミカによる盗みと発覚すると、一転、息子を祝福する。それならまるで一貫性が無く、自分の思い、自分の都合次第になる。ミカが銀を返した時、母親は、その銀を聖別して、主に献げると言った。

 

だが二百枚を献げただけで、その銀で息子のためにと、何と彫像と鋳像を作った。それがミカの母親だった。ミカもミカで、自分の家に宮を作り、自分の息子の一人を祭司に任命していた。するとそこにレビ人の若者が来たので、お金の力で、自分の家の祭司にした。その若いレビ人も、金銭に目がくらみ、それを受け入れた。

 

王が無い時、このように秩序が壊れ、霊的にも道徳的にも腐敗し、堕落し、偶像礼拝がはびこり、混沌状態だ。各々が「自分の目に」正しいと見える事を行った。つまり自分の都合次第であった。主の御心を求める事が無く、正義も無く、ただ自分の損得、自分の欲望で、判断もコロコロ変わる。それは「王がない」ためだと。人は、王が無い時に、自分中心、自分勝手に自分を王にして、欲のままに歩む。

 

私たちもどうだろう。何かを判断し、決める時に、軸は自分の損得、自分の善し悪しだろうか。それとも主の御心だろうか。とっさの判断には、まず自分の都合が優先だろうか。今までの物事の判断を振り返ってみよう。主を心に据え、王座に来て頂いて、まず主の判断を仰ごう。

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自分の物差しと人の物差しで推し量りあう対人関係をみても、気持ち次第の不安定さは大きなストレスになる。自分の基準から主の基準へと判断を変えよう。迷わないよう主に聞き、御言葉を信じよう。

 

 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係