「彼らが、『私たちをさばく王を与えてください。』と言ったとき、 そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。」Ⅰサムエル8:6

サムエルの息子たちが、「父の道に歩まず、利得を追い求め、わろを取り、さばきを曲げていた」。そのため、民は、他国のようにと、王を求めた。だが、民はこの時にまず祈るべきであった主に導きを求めることなく、自分たちの思いで、肉の判断で求めた。

 

主は、サムエルを通して、人間の王の権利を示し、「あなたがたは王の奴隷となる」と厳しく警告された。しかし、それにもかかわらず、自分たちの思いを通して行った時に、主は、王を与えられた。肉で蒔いたものは、肉の実を刈り取る。主は、民が願った通りに、外見的にも、見栄えのする人物を選ばれた。若い美しい男性で、誰よりも背も高かった。容姿端麗であり、彼らの求め通りの王だ。

 

サムエルは、そのサウルに油を注ぎ、王に立てた。サウルに主の霊が激しく下り、預言を始めた。しかし人間的には良い人物であるが、霊的資質には問題があった。ダビデのような主との個人的な親しい関係、主を畏れ、主を愛し、悔い改めつつ、従う、そのような主への心が見られない。権力の座に座った時に、その弱さが段々現れ出て、高慢になって行った。

 

サウル自身にも、主なる王がおられ、ひれ伏し、従う者である事を忘れ、欲しいままに振る舞った。私たちも、立ち止まってみよう。主に祈らず、肉の判断で進んでいないだろうか。どうしても欲しいと我を通す時、主は与えられる。しかし虚しい結実となる。主の御心に従うことが、どんなに幸いで祝福だろう。

 

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肉の思いが強く、何がなんでも、どうしても欲しいというものを、主は与えられる。しかし、「主は彼らにその願うところを与え、やせ衰えさせた」とあり、虚しいばかりだ。主の御心を求める時に、主に喜ば自分自身も喜び満たされる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係