「・・そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです」Ⅱコリント12:7

パウロは、とげが与えられて、痛いとげが取り去られるよう、祈りに祈った。より働けるようにと思っただろうか。その祈りに主は答えられた。その答えは「ノー」で、取り去らないと。そのとげがある事で、弱さの中に、完全に働く主の力を知れるからと。弱さの中で、絶えず主の臨在の中を歩めると。

 

パウロは主の御心を示され、大いに喜んで自らの弱さを誇ると言った。この御言葉は不思議に思えるだろうか。この世の価値観では、強いことが善であり、弱さとは、劣っているという事だ。だから頑張って弱さを克服し、強さに変えようとする。弱さは欠点であり、人前に恥であり、恐れとなる。それが世の価値観だ。

 

そのため、弱さは知られたくないし、見せたくない。人はそのように生きている。だから弱さは足かせで、重荷以外の何ものでもない。そんなところに、「わたしの恵みはあなたに十分。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れる」との御声が臨んだ。パウロは「私は、弱さに甘んじている」と、その中にいる事を喜べた。

 

そして、そのとげは高ぶることがないようにと、与えられ、自らをへりくだらせるものだと。とげを受け入れる事により、高ぶりから守られる。弱さ、侮辱、苦痛・・を甘んじて受け入れる事で、私たちは恐るべき高慢から守られる。高ぶりほど恐ろしいものはない。

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信仰があってもどこか精神的にも肉体的にも弱いより強い方を誇りたくなる。生きるのが楽な気がするからだ。でも主の御心は違う。主から与えられるものだけが誇りだ。弱さの内に主の恵みが溢れる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係