「・・彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。」Ⅱサムエル6:6

サウルに代わり、ダビデが王になった時に、神の箱をエルサレムに持ち帰ろうとした。その時にアビナダブの子、ウザとアフヨがこの任に当たり、牛車を御した。その時、牛がよろめいて、神の箱をひっくり返しそうになり、ウザが押さえた。すると神の怒りが燃え上がり、ウザは打たれて死んだ。

 

このような事態になったからには、ウザに何かの過失があった。当時、神の箱は、アビナダブの家に運び込まれ、数十年を経ていた。置き去りにされ、放ったままで忘れられていた。神の臨在の象徴でる、聖なる神の箱がこんな形で置かれていた事が、当時の人々の霊的状態を表していた。

 

又、神の箱は、移動では、レビ人のケハテ族が棒を通して、肩に担いで行くよう定められていた。そして箱には決して触れてはならなかった。箱に直接触れる事は死に値する罪だった。だが、運んだ彼らはレビ人ではなかった上、ペリシテ人がしていたように牛が引く牛車に乗せて運んだ。神の定めた方法には無頓着であり、反していた。神の定めた方法でなく、自分たちの方法で行った不従順だった。

 

だが、み言葉は「不敬の罪」「ウザによる割り込み」と言っている。主のみわざに割り込む事、人が主を支えようとする事の罪だ。主はすべての主権者であり、主ご自身のご計画がある。人の手に支えられる必要はない。配慮のつもりが、自分の独善で、思いで、主のご計画に割り込む事になる。主の上に立ち、主を妨げてしまう。祈りにより、お心を知り、それに「従う」事を喜ばれる。

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どこか真に主への畏れが失われていないか。問題がなければ自分が先に出てしまう。簡単に御心だと過信してないかと示される。御前にへりくだり、日々新しくされ、謙遜な態度で主に従いたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係