「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」詩篇34:18

謙遜とは、本当は自分には力があると思っているが、それを人に見せびらかさない、という事ではない。世の中ではそうかもしれないが、そうでなく、本心から自分の無力を認めている事だ。パリサイ人と取税人の祈りの箇所で、取税人は真に自分の罪深さがわかっていた。それでパリサイ人のように、人と比べる事など思いも及ばない。

 

人の事など目にも入らず、ただただ、自分と主との関係だけがすべてで、自分の罪が見えるだけだった。主に赦しを求め、そして彼は赦された。モーセは40才の時に、自力で、同胞を救うために立ち上がった。だが失敗し荒野に逃れ、羊飼いとして40年を過ごした。その後、主に召し出された。40年前と違い、老人で、かつての栄光も地位も財も人脈も何も無かった。

 

真に自らの無力を知ったモーセは「私は何者なのでしょう」と尻込みする中、主の説得で押し出された。一番弟子のペテロは、いつも前面に出て、出しゃばる自信家だった。だが目の前で大漁の奇跡を見た時「私から離れて下さい。私は罪深い者」とへりくだった。そして主を三度否んだ後、大泣きして悔い改め、自らの徹底無力を思い知った。

 

自分の無力を知る人こそが、大いに祝福された幸いな者だ。自分を誇らず、自分に頼らず、頼れず、主に拠りすがって行くからだ。砕かれて、無力を知って行く歩みこそが、大きな祝福だ。

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主による救いを受けていても、すぐに自分を頼りにし喜んだり悲しんだりする。自分の無力を知るというのは何と平和なことだろう。罪を悔い改めれば赦しを受け、御言葉に励まされ主と共に歩める。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係