「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった」マタイ18:27

人を赦す事の難しさを経験しただろうか。人を赦せない事ほどつらく、苦しいものはない。心が重く、鉛を抱えているようだ。どんなに楽しい時も、喜びの時も、その事が頭をよぎった途端、心はつらく、暗くなる。喜びがぶち壊しになる。ペテロが何度まで赦すべきかと、主に問うた。

 

その時に、主は7度を70倍するまでと言われ、王としもべの話をされた。6000億の借金の返済不可能なしもべを、王はかわいそうに思い、赦し、免除してやった。主の大きなあわれみだ。ところが、そのしもべが、100万を返金できない仲間を決して赦さず、牢に投げ入れた。それを聞いた王は非常に怒り、そのしもべを借金全額返済まで投獄した。

 

私たちはどうだろう。主の十字架により、すべての罪を無罪放免にされた。何という驚くべき恵みだろう。自分はその大きな恵みを受けていながら、人を赦さないとはどうだろう。そして赦さない心は、牢獄の中だ。獄につながれ、暗闇の中で、がんじがらめだ。苦しいのは相手ではなく、自分自身だ。主は、獄から光へと出して下さる。救って下さる。

 

しかし、自分の側の意志と決意が必要だ。罪の性質は、赦せないのではなく、決してどこまでも赦したくない。主は赦せるようにして下さるが、心の底ではそうしたくない自分がいる。「どうにもできません」と祈ろう。目の前の相手から逃げても、次の環境で、又、別の相手がいる。自分が変えられる事が御心だ。主は自由にして下さる。まず正直に「赦したくありません」と主に祈ろう。

 

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「人にはできないことが、神にはできるのです」と、赦すことは、人にはできない。自我は決して赦さないし、赦したくない。しかし、神にはできることを経験して行く。まず祈りから始める時、みわざを経験して行く。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係