「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。」詩篇 18:28

ある人が証しした。初めて教会へ行った時に「あなたは罪人です」と説明を受けた。「何と失礼な」と内心、ムッとなった。人一倍真面目に生きて、人のお世話を懸命にして来た。犯罪など犯していない。それがどういう事か? だが聖書の学びを続ける中で、その言葉がずっと耳を離れず「罪人」という事を考えた。

 

様々思いを巡らす中で、今まで全く考える事もなかった、心の内側に思いが至った。自分は福祉の仕事をしていて、職場で人々のために、身を粉にして懸命に頑張っていると思っていた。周囲にもそう思われ、まさに親切な良い人であり、皆にも感謝されていた。しかし心の内を見た時に、自分は良い人だと思われたい、人に嫌われたくない、人に評価され、認められたいと思っている。

 

それなら目の前の人々のためなどでなく、自分のためではないか。人からの賞賛は心地良い。仕事も自己実現できて、生き甲斐ある仕事がしたいからだ。それなら自己満足ではないか。物腰は低く、決して表には出さないが、しかし心の中では自分を良い人間と思い、人々を見下し、さばいているおごり。自分は正しいと思っている自己義認。

 

御言葉を学ぶ中で、自己中心、高慢、プライド、虚栄心が示された。御霊の光が無ければ、罪は決してわからない。こんな事、誰でもしている。当たり前で普通の事だ。何が悪いのかわからない。罪がわかること自体が大きな恵みであり、御霊が力強く働いていて下さっている証拠だ。罪がわかる事は感謝なことだ。その罪は赦されるのだから。

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内側の罪はどこか甘く見て歩んでいたが主に救われ、自分の罪、内側の闇が明らかにされてくる。示されたら変わっていける。主の大きな犠牲のゆえに与えられた祝福だ。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係