「そして、その子どもの手を取って、『タリタ、クミ。』と言われた・・すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた」マルコ5:41

信仰の障害とは何だろう。「遅かった」「もう手遅れだ」「もうダメだ」という事がある。だが、「神の時」と「私たちの時」は、しばしば異なる。ヤイロは病気で、もう危篤の最愛の娘のために、主に家に来て頂くよう頼んだ。必死だったろう。主はそれに応えられ、一緒にに家へ向かわれた。

 

するとその途上で、中断を余儀なくされた。長血の女性が、いやしを求めて、主のもとに来たのだ。主は、その女性に対応され、女性に救いを与えられた。その事で手間取ってしまった。一刻を争うこの時に、ヤイロは。もう気が気でなかったろう。するとそこに使いが来て、娘は亡くなったと告げた。残念ながら遅かった、手遅れだ、もうダメだと。

 

しかし、主は間髪を入れず、ヤイロに言葉をかけられた。「恐れないで、ただ信じていなさい」と。信じているようにと。「神の時」がある。時もすべてが主の御手の内、主に遅延は決して無い。ラザロの時も、「主の時」を待たれた。時が満ちるまで断固動かれず、そしてラザロの病気を治すのでなく、死からよみがえらせる事により、主の栄光を現された。

 

決して遅れではない。それは主の定められた「時」であり、栄光のためだ。主により語られた御言葉を握っていよう。「恐れないで、ただ信じていなさい」の言葉にすがりつき、そこに立とう。そして世の言葉「なぜ、この上先生を煩わすことがありましょう」を聞き流そう。聞く言葉と、聞き流すべき言葉がある。

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自分の思う時に、思うような結果しか望まないなら不安と恐ればかりだ。主のご愛を信じ御言葉に立っていよう。主は一番良い時に、最善を与えてくださる。遅れてはいない。御言葉を信じよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係