「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11:28

ある人の証しだ。後輩から対人関係の悩みの相談を受けた。状況を見定め、解決へのアドバイスをしたいと思い、それで相手が話すしりから、「それは、君もちょっと問題だよ」「君のその言動はまずいよ」と、良くない点を正すべく指摘し、話を折ってしまった。又、「それは、~した方が良かったね」「もっと別の言い方をすべきだったね」と、~こうすべきだと、次々話す。

 

自分では、解決を図ろうと助言したつもりだった。しかし、ついに相手はキレてしまって、「先輩は、何も聞いてくれない!あれが悪い、これが悪い。ああしろ、こうしろと、正論ばかりを言って、気持ちが全然休まらない。もうイライラする」と親しい間なので本音を言ってくれたのだが、大変なショックだった。

 

確かに、自分は第三者で、客観的に何が正しいかがわかるので、答えを言い続けていた。彼のつらい気持ちに寄り添うなど全く無く、そこに気づきもしなかった。実際は、正しさを押し通し、押し付けてしまい、荷を軽くするどころか、更に重荷を負わせてしまっていた。

 

これではパリサイ人ではないか。主のお心と何とかけ離れていた事だろう。私たちが自分の正しさで、相手を苦しめていないかと言われる。主は、まさにその重荷を取るために来て下さった。周から「良い人」と言われて生きてくると、いつしか自分は正しいと思ってしまう。正論は、誰しも言われなくてもわかっている。しかしそれが出来ない、そこが問題なのだ。共に主のもとに行き、主を仰ぎ、一緒に祈って行く事を教えられた。

 

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日常生活で、正しい事、なすべき事はわかるのだが、自我があるため、妨げとなり、行うことができない。そんな悶々の中で、いつも主が疲れた者を招いて下さる。主のもとで取り扱われ、休ませられる。平安とされる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係