「ペテロは言った。『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。』 弟子たちはみなそう言った。」マタイ26:35

ペテロは、弟子たち皆が主を裏切っても、自分は決して裏切らないと断言した。「私は」命をかけて、何があっても、どこまでもついて行く。「私は」あなたを知らないなどと決して言わない。「私は」何があっても大丈夫。そんな心意気だったろう。自信があり、自信満々であった。

 

ペテロは自分の弱さという事を知らなかった。又、「自分は」他の弟子たちとは違う、そこに高慢が潜んでいた。「シモン眠っているのか、まだ眠っているのか」との主の言葉の通り、ゲッセマネで、主が祈りの厳しい苦闘の中、眠り込んでいた。主はご自分の姿を、心の内を弟子たちの前にさらけ出され「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで目をさましていなさい」と、

 

弟子たちが一緒に祈ることを求め、願われた。主は、ご自分の弱さを認められ、御父に拠り頼み、すがり、すべてを祈りに持って行かれた。弱さを認めた、祈りの苦闘の中で勝利され、「立ちなさい。さあ行くのです」と、十字架に向かって真っ直ぐに顔を向け、歩み出された。主とペテロの違いは、ペテロは自分の弱さを知らない事だった。

 

弱さの自覚がないため、祈りが無かった。主は弱さを自覚され、切に祈られた。眠気が問題なのでなく、「自らの弱さ」を知らない事が致命傷だった。弱さを認めなければ、祈りの必要性が無い。弱いからこそ、切に祈り、拠りすがるからだ。自自らの弱さを知ることにより、初めて主に拠り頼み、祈ることができる。

 

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自分でやって行けると思うので、祈らないで歩んでしまう。そして手痛い失敗を通して、学ばされる。自らの弱さを知らされ、頼るようにされる。砕かれて、主に拠りすがって行ける。主を離れて自分で進んでいる時に、気づきが与えられたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係