こんな記事があった。「私たちは聖書を読み、祈らなければと思う。しかし、どうだろう。今はそういう気分ではない。気分が乗らない時にするのは律法的だから、その気になったらしよう。ということで先延ばしにする。朝の時間は、すぐに過ぎる。次から次と、なすべき事が山積みだ。時間がある時にと思っていると、あっという間に昼だ。
雑用、会うべき人々、次々起こる事態の対処、すると、もう夕刻になり、夜は、ダラダラと見てしまうテレビ番組、今日も聖書を読む時間が無かった・・。本当は時間があるのだ」。どうしても必要な事はただ一つだと言っている。次善の山のような物事に忙殺される。本末転倒になってしまい、たましいがやせて来る。
ある人は、仕事に追われ、多忙な日々で時間が無いから、主との交わりが持てないと思っていた。時間さえあれば、ああ時間が欲しいと。そんなある時、突然の休暇が入った。しかし大喜びで行楽に弾け、全く主との交わりどころでは無かった。その時、時間の問題でなく、自分自身の問題だと示された。
まさに「マリヤは良いほうを選んだ」から、主との交わりを選ばない自分に気づかされた。その事を認めて、御前に出た時に、心満たされる幸いな時が与えられた。なかなかデボーションが持てない時、選ぼうとしていない自分がいるかも知れない。自分を責めるのではなく、自分自身の姿を正直に認めて行く時、主が働いて下さり、上から与えられる。
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仕事に追われ、多くの情報が溢れぼーっとする隙間もないほどだ。押し流されてしまう弱さを覚えていたい。意思を持って主との時間を選択しよう。主が守ってくださる。失敗しても諦めず御言葉を開こう。