「咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。」詩篇 65:3

ダビデが、バテシバとの姦淫、彼女の夫ウリヤ殺害の罪を隠していた間は、良心のかしゃくで一日中うめき、骨々は疲れ果て、骨髄は夏のひでりで乾ききった、とある。「御手が昼も夜も重くのしかかり」と、主が臨んで、良心のかしゃくを与えておられた。その罪ゆえに煩悶し、耐えきれず、自らの罪を主の御前に告白し、悔い改めた。

 

悔い改めにより、罪が赦された大きな喜びを語っている。「あなたは私の隠れ場、救いの歓声で私を取り囲まれる」天にものぼる嬉しさ、喜びであったろう。苦悩にうめき、苦しんだ心の奥が平安にされ、安堵が臨み、そしてその平安は流れ出て来て、喜びが満ち溢れた。罪をひたすら隠して、もだえ苦しんでいた時と何という驚くべき違い、天と地の差だ。

 

「幸いなことよ。そむきを赦され~」この「幸い」は、素晴らしい幸福、最高の幸福、満ち満ちた喜びとの意味だ。ダビデは名誉も地位も、富も才能も持った人だった。王であり将軍であり、音楽の才能を持ち、詩篇を書いた詩人でもあり、文武両道何もかも所有した人物だった。しかし、ダビデの人生で、何よりの最高の幸せは、罪を赦された事だった。

 

主は、罪を悔い改め、赦された人に「悟りを与え、行くべき道を教えて」下さる。霊的な理解や気づきを与えて、人生を導いて下さる。何という幸いだろう。今、良心のかしゃくがあるなら、主の赦しを受け取ろう。罪は痛みと苦しみだ。最高の幸せは、罪が赦される事だから。

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赦しを受け取ると圧倒してくる罪のとがめから解放され、感謝とともに主の御前に心底へりくだらされる。謙遜にさせられる。罪を赦されるとは何という幸いだろう。主の赦しを受け取ろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係