「かつて、神々を神々でないものに、取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は、その栄光を無益なものに取り替えた。」エレミヤ2:11

私たちは心を満たそうと、様々なものを追い求める。ある人は富を、ある人は、やりがいのある仕事や趣味、又、別の人は名誉や地位、人からの賞賛を求める。人により様々違うが、それらはすべて「こわれた水ため」だと言っている。「多くの、こわれた水ためを、自分たちのために掘った」のだと。

 

どんなに水をためようとしても、壊れているので、水がもれ出てしまう。水をためる事ができず、つまり決して心を満たす事が出来ない。何が問題なのだろう。それは「湧き水の泉であるわたしを捨てて」とあり、主を捨てた事による。泉は、水が湧いて出る。どんどん幾らでも湧き出て、決して無くならず、尽きる事がない。主こそが湧き水だ。

 

その湧き水である主を捨てるなら、何を持ってしても満たされる事がない。あなたの心はどうだろう。主以外のものに、拠り所を置いていないだろうか。有形でも無形でも、もし主以上に大切なものがあるなら、それは「偶像」だ。「あなたの力とするもの」「栄えに満ちた喜び」「愛するもの」「心に慕うもの」・・それらは、主との関係を妨げ、離してしまう。

 

非常に魅力的で心奪われるもの、喜ばしい、慕わしいもの、しかし実は、それは「壊れた水ため」なのだと。大きな魅力があり、心惹かれるが、そっちへ行っても決して心を満たされる事はない。湧き水である主のもとに、真の喜びが尽きる事なくあり、平安に満たされる。今、何か心が虚しければ、主以外のものを求めていないだろうか。御霊に心を探って頂こう。

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主以外の何かを頼みとしても、いつかそれは無くなり枯れる。主を頼みとして歩もう。いつも主が共におられ、たとえ一人でも孤独ではない。日々に豊かな水によって養われていく。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係