『その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」 ヨハネ5:3

ベテスダの池で、38年もの間、病気で伏せっている男性がいた。主は、彼に「よくなりたいか」と聞かれた。38年の長い間、病気だった人に、「よくなりたいか」は不思議に思える。当然、よくなりたいに決まっているのではと。しかし、ある日突然、健康体になるなら、働いて、社会生活を営んで行く事になる。

 

仕事を探し、住まいを探し、突然多くの責任が生じて来る。大きな喜びである反面、非常に厳しい現実になるかも知れない。私たちも、どうだろう。日常で変化を好まない面があるだろうか。現状に甘んじていれば楽なのだ。変化には大変なエネルギーが要る。霊的状況に関してどうだろう。

 

主は「よくなりたいか」と問うて下さる。自分の弱さを直視したくなくて、惨めさを認めたくなくて、突き詰めるのが怖い。非常に痛みを伴う事だ。肝心な所はあいまいにしていたい。はっきりさせるなら、従って行く決心をするなら、払うべき犠牲にうすうす気づいている。 その犠牲は困るだろうか。そこで、ふたをしておく事になる。主に従っては行きたいが、そこまでは、と思う。だがそれなら主の事も、もやがかかったままになる。生涯、どっちつかずになってしまう。もっと生き生きした、満ち溢れた喜びの生活に進みたくないだろうか。「よくなりたいか」と主は常に問いかけて下さっている。強制ではなく、そうしたいかと問われている。

 

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「よくなりたいか」と問うて下さる。主は、私たちの内側の罪も、闇も、又、病気も、すべてご存じだ。本当に良くなりたいだろうか。あいまいな中に、うやむやな中に、いたいだろうか。自らの内側を照らされて、主に応答し、よくしていただこう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係