「もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。」ガラテヤ5:2

主に従い、御言葉に従おうとする時に、いつも衝突して来るものがある。この世の価値観や、習慣、経験値、考え方だ。又、人にどう見られるか、どう言われるかとの、肉の思いが来る。世の価値観は、妥当に見え、常識的に見える。例えば、今まで叱咤激励の中で来たので、自力で懸命に頑張る事が善であり、美徳だ。

 

新生し、まことの神を知るや、更に真面目に、忠実でなければと、信仰生活とは厳しい修行のように思ってしまう。自分の力で従うなら、つらく苦しいばかりだ。しかし苦労は美徳で、修行している気になる。日本人気質に合致する。これら世の価値観から来ている。 

 

しかし本音は苦しいばかりでつらいし、平安も喜びも無い。それは真理と逆の方向に向いているからだ。主からのものではない。ここでは割礼の事が問題となっている。割礼によって義と認められようとするなら、恵みから落ちてしまっていると。何かをする事によって、主に認められようとする事は、もはや恵みではない。

 

恵みから落ち、キリストから離れてしまっている。信仰生活は、主に受け入れてもらうための、苦しい修行でなく、すでに丸ごと受け入れられ、100%の愛を受けているゆえに、喜んで、感謝して自由意志で、主に従って行くものだ。

 

「ねばならない」義務ではなく、「愛によって働く信仰」で、愛が動機であり、自発的な自由意志で仕えて行くものだ。もしつらく重荷であれば、主に行き、ありのまま告げよう。主が正しく導いて下さる。

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「ねばならない」と頑張り続けることは、今日は出来ても明日は出来ない。弱いままで100%主が支えてくださるから主を喜び主に従っていける。主の恵みに与り主を頼っていよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係