「モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Ⅱコリント3:15

おおいは、すでにキリストによって取り除かれている。主は取り除いて下さったのだが、自分が心におおいをかけている。新生しているのだが、古い性質があり、生まれつきの思いで生きている。思いが古いままで、この世の価値観のままなら、新しいぶどう酒を、古い皮袋に入れている事になる。私たちのおおいとは、何だろう。

 

まず自分中心に物事を見、考える事だ。日々の生活に浸透している。まず自分が第一に来て、自分にとって損か得か、それをする事で何か自分にメリットはあるのか、犠牲を払わねばならないのか、計算が働いて来る。御言葉も、古い価値観で受け取っている事に気づかされたりする。ある人が、「御言葉が、なかなかわからなかった。肉の価値観で、御言葉を聞いていた事に気づかされた。

 

この世の考え方で御言葉を理解しようとするので、全く相容れない。その時に御言葉の方を退け、捨ててしまっていた。その事に気づかされた」別の人は「御言葉をずっと自分の力で行おうとしていた。そのため全く行えず、そこで止まってしまっていて、自分は全然変わらなかった」「信仰と現実の生活が全然リンクしない。

 

それはそれ、これはこれ、になってしまっていた」「そこで、祈れば良かったのだが、それもなく日を過ごしてしまっていた。やはり根は自我にあり、救われていても、世のものを求めていたからだと思う」御言葉に従えないからこそ、主は祈りを備えて下さっている。ありのまま出来ないまま、祈って行く時に、確かに自分が変えられて行く。

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御言葉を理解しよう、従おうとするといつも自分の都合と自分の知恵が先に来る。自分からはなれ、主を仰ごう。自分には出来ないが主は力を与えてくださる。御言葉を素直に聞いていきたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係