「カレアハの子ヨハナンと、すべての将校と、すべての民は、『ユダの国にとどまれ。』という主の御声に聞き従わなかった。」エレミヤ 43:4     

民は、エレミヤに、自分たちは、多くの民からごくわずがだけ残った。主のみ声に従うから、歩むべき道、なすべき事を主に伺うよう願った。すると、主の示しがエレミヤに臨み、この国にとどまるようにと。バビロン王を恐れるな。わたしがあなた方を救い出すからと。エジプトに行くなら剣とききんと疫病で死ぬ事になると。

 

彼らは、良くても悪くても主の言葉に従うと言ったのに、とどまれとの示しに従わなかった。実は、エジプトへ行く事をすでに決めていて、その承認が欲しかったのだ。私たちはどうだろう。主の御声に従いますと言い、そのために御心を求めると言いつつ、実は心では自分の強い願望があり、すでに決めていたりする。

 

それを保証し、後押ししてくれる御言葉が欲しい。願望が強いと、無意識に御言葉を自分で選んでいて気づかない。自分の思いで進み、失敗してしまう。ユダにとどまるなら、バビロンに殺されるのではと、民は不安と恐怖におののいていた。主が「わたしが救う」「わたいが救い出す」と語られたにもかかわらず、御声に従わず、エジプトに逃げるという目に見える安易な方向へ進んだ。

 

私たちも、自分の内から、肉の声が湧き上がる。見た目に、都合良く、楽な道だ。主の御声は時として厳しい。目の前に二つの道があるだろうか。不安や恐れ、思い煩いをありのまま祈ろう。主に従えるよう、助けを求めて祈ろう。自分では出来ないが、御霊が必ず従えるよう助けて下さる。

 

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様々な声が聞こえる。地に属し、肉に属し、悪霊に属する声が来る。そして上からの声がある。それらが絶えず混線している。祈り、主に頼って行く時に、御霊が識別させて下さる。平安のある無しや御言葉や、環境の閉じ開きによって正しく導いて下さる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係