「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」ローマ7:15

結婚したある女性が、夫は、自分が思っていた男性とは全く違う事がわかって来た。今まで異なる背景と環境で過ごして来たわけで、考え方、価値観の違いに驚き、好みの違い、習慣の違い、様々な違いにギクシャクした。この結婚は、間違いだったのだろうか。悶々状態の中にいたが、夫は仕事が多忙で、語り合う時間も無かった。

 

イライラが募り、不満で一杯になり、相手を責めてしまう。相手を変えようとする。話し合い、理解し合えたら良いのだが、言い合いになり、顔を合わすとけんかになる。しかし自分の非は認めたくない。そんな強い自我に苦しみ、又、自己嫌悪にも陥る。平安が無くなり、主の御前に赦しを求めるが、すぐに相手を責め立てる思いが、噴き出す。悶々の日々を経て、疲れ果ててしまい、もうこれ以上やって行けない状態になった。

 

夫とは争いが絶えず、もう結婚生活を続ける事に限界を感じるまでに、追い込まれた。「主よ、助けて下さい。自分自身を、もうどうにもできません。心底の叫びだった。この結婚を委ねます」とギブアップした。その時初めて、理解していると思っていた主の十字架が、自分の事として迫った。

 

罪しか犯す事ができない自分だからこそ、十字架がある事がわかり、涙ながらに悔い改めが与えられ、今まで味わった事のない平安に包まれた。祈りながらも、ずっと自分で、自分の力で、何とかしようとして、もがき、あがいていた事に気づかされた。どん底こそが、実は最大の恵みの場所であり、主と出会える場所だった。

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一生懸命にやっていると自分の実態がわからなくなってしまう。我慢している自分だけしか見えない。自分の真の姿を示されることは感謝だ。自分からも解放される。主が導き返してくださる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係