「元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」使徒27;25

パウロは主から、エルサレムで証しをしたように、ローマでも証しをするよう、ローマ行きを示されていた。するとその通りに、パウロの思いとは異なり、囚人としてではあったが、イタリヤ行きの船に乗る事になった。それが強風のために進めず、良い港という所に着いた。パウロは、もう季節的に航海は危険だと主張したのだが、百人隊長により、クレテの港へ行き冬を過ごす事になった。

 

すると何日も続く激しい暴風に会い、船はほんろうされ、積み荷を捨て、船具まで捨てた。太陽も星も見えない日々が続き、もはや絶望的で、最後の望みも断たれようとしていた。だがパウロは「命を失う者は一人もない。失われるのは船だけ」と確信に満ちて告げた。主は、信仰人生、失うものは何もないとは言われない。ヤコブも「私も、失う時には、失うのだ」と言った。

 

私たちは、様々失うものがあるだろう。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と。ヨブは、主は与えられると同時に、取られるとも証しした。しかし失う事はあっても、必ず私たちは、堅く守られ、信仰の生涯を全うする事ができる。船を失う事はあるが、信仰人生は必ず守られ、確実に安全な島に打ち上げられる事を覚えよう。

 

誰しも得る事は嬉しいが、失う事は嬉しくなく、痛手だ。だが振り返る時、あの時、この時の損失、大きな心痛だったが、それにより自分自身が練られきよめられ、成長させられたのではないだろうか。痛手を通ってこその、今の自分がある。実際に、色々な形で損失を通るが、思いを遙かに超えた祝福に至る。船を失う事はあるが、いのちは守られる。

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特別な取り扱いは大きな苦痛であっても主に最も近づけられる時だ。必ず主は守ってくださるとパウロのように言おう。失うことがあっても主は新しい祝福も備えていてくださる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係