「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。 ここにはおられません。よみがえられたのです。」ルカ24:5

主が葬られた墓に、女性たちが香料を持って来た。すると、大きな石が墓に立てかけられていたのだが、それが転がされていて、中に、主の遺体が無かった。彼女たちが。途方に暮れていると、そこに御使いが現れ、主がよみがえられたと告げた。「ここにはおられません」と。

 

「ここ」とは、墓の中で、死人を葬る場所だ。主は、死人の中にはおられないと。死から、よみがえられたからだ。私たちは「生きている方を死人の中に捜し」ていないだろうか。あたかも主に力が無いかのように、死人であるかのように、主を横に追いやり、「自分が、自分が」と自分の力で信仰生活をやりくりしていないだろうか。

 

決してうまく行かない。すべてが自分の肩にかかるので、重圧で苦しくてたまらない。焦り、いら立ち、思い煩い、恐れ不安で、疲れ果ててしまう。まるで主は生きておらず、死んでおられるかのようだ。自分が、やり遂げなければならないかのように。墓とは、人が主イエスの遺体を葬った所だ。

 

人が、主に対して、して差し上げた場所だ。しかし、その所を打ち破って、よみがえられた。もう「ここ」にはおられない。よみがえりとは、主が全主権を握られ、主の支配によって、事がなされる場所だ。

 

今、まさに生ける主であり、私たちが主のためにではなく、逆で、主が、私たちのためにわざを成して下さっている。生きて働かれているのだから。よみがえりの主のいのちは、今日の信仰生活に生き生きと溢れ流れている。そこには喜びと平安が満ちている。

 

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自分が、自分がと、まるで主が死んでおられるかのように、自分の知恵、力で、自分が事に当たる。自分が主を助け、支えるかのようだ。そこに主はおられず、主を離れては、実を結ぶ事が無い。内に生きていて下さる主を絶えず覚えよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係