「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておおきました」マタイ25:24

信仰者の神観は、信仰生活に大きな影響を及ぼす。一タラントのしもべはどうだろう。彼の神観は「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方」だった。それで「怖くなり、あなたの一タラ ントを地の中に隠した」だった。彼は、いい加減な人ではない。むしろ真面目で、一タラントを絶対に減らす事はできないと考えた。

 

ひどい、怖いい主人だ、減らしでもすれば、どんなに恐ろしい事になるか。失敗を恐れる余り、いっさい何もせず、地の中に埋めた。そのまま返せば、減らしていないのだから、文句は無いだろう。彼は主人を信頼しておらず、主人への愛も無かった。彼の主人観は、怖い厳しい主人、常に要求され、奪い取られ、失敗や過失は赦されない。罰っされるとの怯えと恐れに支配されていた。

 

そんな主人のために、何かをしたいなどと思わない。最低限すべき事は、きちんとするから、後はいっさい関わらないで欲しい。これはパリサイ人そのものだ。律法を几帳面に細かく守り、人からもいっさい非難されないよう、真面目に生きる。しかし問題は、しもべを愛し信頼し、失敗のリスクも承知の上で、多額の富を預けてくれた主人の心が、全くわからない事だった。

 

主人の心は、愛と慈しみで満ちていて、何よりしもべと喜びを共にしたい。あとの二人は、主人を喜ばせたい一心で、留守中、精一杯労した。主人は愛なる方、万一失敗しても赦して下さる。主人の愛を信じていたので、思いきり喜び勇んで働けた。失敗を恐れて、一歩が踏み出せないだろうか。主は賜物を預けて下さった。示しがあるなら、主のために一歩踏み出そう。

 

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主は喜びを与えたい、喜びを共にしたいと、タラントを与えて下さった。任せて下さっている。どこまでも喜びのためだ。それが重荷となり、しんどいものになっているなら、主を仰ぎ、御霊に導いて頂こう。今一度、新しくして下さる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係